詩篇15篇
ダビデの賛歌。
15:1 主よだれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。
幕屋に宿るすなわち、一時的な滞在をすることは、比喩です。幕屋は、祭司しか入ることができません。まして、一時的にしろ住むことはありません。「あなたの幕屋」と記されていて、これが主のものであることが強調されています。宿ることは、共にいることを表しています。主の臨在の場所にいるということです。非常に近く、ともにいることを表しています。
また、「聖なる山」は、通常シオンのことで、エルサレムを指していますが、ここでは、「あなたの聖なる山」と記されていて、これが主のものであり、また、聖なるものすなわち神に属するものであることが強調されていて、これも主の臨在の聖なるところにともにいることが表されています。「住む」ことは、いつまでもそこにいることを表しています。
聖なることは、この世のものとは分離して神のものとされていることを表しています。この人自身がそのような聖なるところに神とともにいることができるということは、その人自身が自分を神に捧げて神のものとされているからです。すなわち、神の御心は何かを知り、この世と調子を合わせず、自分を神に捧げた人のことです。これは、汚れがない清さを意味するだけではありません。
ローマ
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば(→それは)、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります(→なるためです)。
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・「宿る」→一時的な滞在、居住。非本国人として居住地を構える行為。
15:2 全き者として歩み義を行い心の中の真実を語る人。
全き者として歩む人であり、義を行う人です。これは、神様の御心を行う人のことです。そのような人が聖なる人なのです。
そして、心の中の真実を語る人は、心の中がまず真実なのです。そして、それを語るのです。嘘偽りがありません。
15:3 舌をもって中傷せず友人に悪を行わず隣人へのそしりを口にしない人。
そのことは、舌をもって中傷せずと繰り返されています。
心の中の真実に従った行動しますから、友人に対して悪を行いません。
また、隣人に対してそしりを口にしません。
15:4 その目は主に捨てられた者を蔑み主を恐れる者を彼は尊ぶ。損になっても誓ったことは変えない。
その目は、どのように人を判断するかということの判断基準の比喩です。主に捨てられた者を価値のないものとするのは、主と同じ判断、同じ心であるからです。これは、人を軽率に断罪することではありません。主は、罪人が悔い改めて立ち返るのを望んでおられます。しかし、それでも捨てられる者がいるのです。忍耐と寛容で人を導きますが、主に捨てられた人に対して主と同じ判断を下すのです。この訳のように、その人を蔑むことはありません。
そして、主を恐れる人を尊びます。主はそのような人を尊ばれます。この人自身が主を恐れることの尊さをよく知っているのです。
誓いは、損になっても変えません。誓いは、人の前ではなく、主の前にするからです。裏切って主に背くようなことはしないのです。人は、人前のことをよく考えて行動しますが、この人は、主の前に自分を置いていました。
・「蔑み」→誰かまたは何かを無価値扱いし、軽んじ、侮り、あるいは軽蔑する。この場合、価値のないものとみなす。
15:5 利息をつけて金を貸すことはせず潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は決して揺るがされない。
そして、利息を付けて金を貸すことをしません。これは、律法に規定されていることです。
出エジプト記
22:25 もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。
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レビ記
25:36 彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。
25:37 彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利益を得てはならない。
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申命記
23:19 金銭の利息であれ食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。
23:20 異国人からは利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福されるためである。
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そして、賄賂を受け取りません。それによって潔白な人が不利になるからです。
これらを行う人が揺るがされないのです。信仰により、御心を行う人に主は応えられます。この人は、主とともにいる人であり、その歩みを主が支えられることがわかります。
自分を聖なる者として捧げることは、御心を行うという実践を伴うものであることがわかります。